「紅羽と宮城先生がねえ・・」お見舞いに来た夏美はまだ信じられないって顔をしている。「ごめん、黙っていて」「いいよ。でも・・・信じられない」さっきからそればっかりだ。「あれ来てたんだ」買い物から戻ってきた降公が、チラッと夏美を見てから私が頼んだプリンを差し出す。「お邪魔してます」夏美は不思議そうに、私と公を交互に見ている。「何してるんだ、ちゃんと寝てろよ」いつの間にかベットを出てソファーに座っている私に、公が注意する。「だって、産科の先生ももう大丈夫だって」「それでも、用心しろ」「動かずにずっと寝ていろって言うの?」「ああ」「はあ?」最近の公は、時々暴君に見える。「言うことを聞け。産科の先生に1ヶ月自宅安静の診断書出させたから」「え?そんなことすれば、仕事が・・・」ただでさえ赴任先への出勤が伸びているのに・・・「大丈夫、いざとなれば俺がもらってやる」途端に、私の顔が赤くなった。一方夏美は、お腹を抱えて笑ってる。「もーやめて。宮城先生のイメージが崩れていく」本当にその通り。最近は公の二重人格がバレバレだから。***あっという間に、公と私の噂は病院内に広まった。しかし不思議なくらいお祝いモードで、今まで隠していたことが何だったんだろうと思うくらいだった。ただ一人機嫌が悪い翼を覗いては。「ありがとう、翼。お世話になったわね」主治医は産科に変わったのに、翼は日に1度は顔を出してくれている。そして、こうして交際が公になったからには翼の家に同居するのもおかしいだろうとの公の意見で、私は今引っ越しの準備中。翼はそれが不満らしい。「俺は別に、これからもお世話するけれど」冗談とも本気ともわからない翼の呟き。しかし、そういうわけにもいかない。「その必要
「オイ、しっかりしろ」聞こえてきたのは、翼の声だった。ここは・・・病院で、私は・・・倒れたんだ。赤ちゃんは?「紅羽、大丈夫か?」今度は父の声。私はゆっくりと目をけ、体を起こそうとした。「馬鹿、寝てろ」翼が肩に手を当て、私を止める。「そうだぞ、今はじっとしていなさい」父の言葉にウンウンと翼が頷く。父さんと翼は以前から何度か顔を合わせている。もちろん友達としてで、まさか一緒に暮らしているとは思っていないけれど面識はある。「心配いらないからな。落ち着くまで、もう少し寝ていろ」「うん」翼は優しく言ってくれるけれど、私にはわかった。自分の体だもの。わからないはずがない。今も・・・出血が続いている。「検査だな」「俺が診ますから」救命部長の声に対して、いつになく翼の語気が強い。てきぱきと処置をする翼に部長を含め反対する者はなく、みんな遠巻きに見ている。「とりあえず、師長、救急病棟の部屋を用意してください」「個室でいいですよね」「ええ、かまいません」なぜか翼が答えている。差額ベット代を払うのは私ですがと思ったけれど、今は黙っていよう。「検査は血液検査と、超音波は病室に上がってからにします」「レントゲンは?」「うーん、後でいいです。とにかく、病室に上げてやりましょう」「「はい」」師長の問いに翼が言い切り、救命部長も了承した。本来なら、この状況ではレントゲンが必須だと思う。でも、妊娠初期の私にレントゲンはできない。翼はわかっていて断ってくれたんだ。もしかしたら、部長も師長も気づいたかも知れないけれど、結局みんな黙ってくれた。***入院したのは救急病棟の特別室。朝方まで付き添っていた父さんが帰り、翼と2人になった。「救命部長、きっと気づいた
大学の時の担当教授に『お前、子供は好きか』と聞かれ、『いいえ』と答えた。すると、『じゃあ小児科に行け』と言われ驚いた。『意地悪ですか?』と返すと『違う。子供好きに小児科医は向かない。お前みたいな奴が小児科にはいいんだ』と。なぜだろうと首をかしげると、『小児科は子供が亡くなっていくところを見なくちゃいけない』と言われ納得した。ああ、なるほど。それを聞いて、私は小児科を希望した。「紅羽」「夏美、遅くなってごめん」「さっき亡くなったわ」「そう」やっぱり間に合わなかったか。NICUに入ると、小さなベットを何人もの大人が囲んでいた。「山形先生」唯ちゃんのお母さんが、駆けよって私の手を取った。ゆっくり歩み寄り、見えてきたのはベットの上で眠っている唯ちゃんの、2歳の誕生日を迎えたはずなのにとっても小さな体。いつもは何本もの管でつながれ機械の音がしているのに、今はすべて外されて安らかな顔だ。「お世話になりました」涙を流しお父さんがお礼を言っている。結衣ちゃんを囲む看護師達の目が、みなウルウルとしている。でも、私はここでは泣かない。医者は命を預かるんだ。『患者は医者を頼っているんだから、絶対に泣くな』研修医時代にそう教えられた。だから、私は患者の前では涙を見せない。***ご両親や今まで関わってきた病院スタッフにたっぷり抱っこしてもらった後、唯ちゃんは生まれて初めて病院を出た。私は、寂しさがこみ上げた。たった2年の短い命。病院から出ることもできず、痛いこともいっぱいされて、頑張って生きた人生。唯ちゃんの生きた時間って何だったんだろうと、自分が親になろうとしている今だからこそ思いが募ってしまう。「紅羽、帰るの?」「うん。父さんが車で待っているから」「ふーん」夏美が何か言いたそうにしている。辞令が出た後体調不良でずっと休んでいたから、きっと言いたいことも聞
実家に戻って数日、体調も良くて穏やかに過ごしていた。正直、仕事のことは頭になかった。そんなとき、突然鳴ったスマホの着信。時刻は夜の9時。何だろうと確認すると夏美からの着信で、珍しいなと思いながらすごくイヤな予感がした。「もしもし」「山形先生?」えっ?夏美がこんな呼び方をするのは仕事の時。って事は、誰かが急変?「どうしたの?」幾分自分の声が緊張しているのがわかる。「唯ちゃんが急変した」「嘘」「本当よ。あなた、月末まではこっちの病院に席があるんだったわよね?」「ええ」だったら来なさいと、夏美は言っている。私にも躊躇いはなかった。「少し時間はかかるけれど、向かうから」「ええ、待ってる」今から向かっても間に合うかどうかはわからないけれど、とにかく行こう。夏美からの電話を切ってから、私は身支度を始めた。駅まで行って電車があるか確認して、もしダメならタクシーを拾おう。こんな時間に黙って帰るわけにもいかず、私は両親の部屋をたずねた。「ごめん、受け持ちの患者が急変らしくて、一旦帰るわ」荷物を手に声をかけると、なぜか父が立ち上がった。「送っていく」「でも・・・」「お前車で来ていないんだろう?」それはそうだけれど。「無理したらダメよ。1人の体じゃないんだから」母にも言われ、素直に送ってもらうことにした。***結局父さんの車に乗せられ、家を出た。最初は駅まで行くのかなと思っていたが、車はそのまま高速へ。「駅で電車を探すのに」「この時間じゃあるかわからんだろう」「でも・・・」「いいんだ。着くまで寝てろ」私は、無性に胸が熱くなった。その後も、無言の車内。目を閉じても眠ることはできず、代わり映えのしない車窓を眺めて過ごした。
本堂に向かうと父がすでに座っていて、母さんも後ろから入ってきた。「紅羽、何か言うことはないか?」 広い本堂の中に響く父の声。「勤務先を異動になりました」やはり、本題はなかなか口にできなくて、当たり障りのないことを言ってしまった。「いつからなの?」母の声が後ろから聞こえ、父はジーッと私を見ている。「来月から、隣町の市立病院に行くの」 「随分中途半端な時期ね」 「うん。部長ともめて・・・とばされてしまった」 「まあ」 母が驚いている。でも、そのことを咎めようとはしない。 子供の頃から、母さんはいつも私の味方だったから、あまり叱られた覚えがない。 友達の家では、『普段口うるさく注意するのはお母さんで、お父さんは何も言わない』よくそんな話を聞いたけれど、我が家は違っていた。 叱るのはいつも父さんの役目だった。「それだけか?」父の顔が険しい。 きっと、父も母も気づいている。 もう、ごまかすことはできないんだ。「赤ちゃんが、できました」 「父親は?」 「・・・」 言えない。「紅羽、こっちに帰ってきなさい」 え? 「1人で子供を育てられるはずないだろう」 「・・・」 「育児をなめるな」 「・・・」父と母は実の子供には恵まれなかったが、私を育ててくれた。 色んな思いや、苦労があったのだと思う。 だからこそ、「妊娠してしまった」と言った私に怒っているのだ。「どうやって子供を育てますってビジョンがないなら、帰ってきなさい。いい加減な気持ちで親になろうなんて、父さんは許さない。いいね」 そう言ったきり父さんは席を立った。住職であり元教師の父の言葉は重たくて、今の私には反論できなかった。「子育ては紅羽が思うよりも大変よ。ちゃんと父さんを納得させられないなら、帰ってきなさい」 「母さん・・・
私は病気療養の名目で2週間の休みをもらい、このままでいけば休み明けから次の勤務先へ異動になる予定だ。妊娠の事は秘密の為、周りから見れば異動が嫌で駄駄をこねている様に見えるけれど、今は仕方ない。そんな事にかまっていられないから、ありがたく静養と異動の準備をさせてもらおうと思う。とはいえ、勤務先は隣町のため住居の引っ越しは不要で、これまで通り翼との同居は継続する。長期休暇のお陰で、つわりの為に弱った体をゆっくり休ませることができた。時間を気にすることもなくゴロゴロとベットで過ごし、病院にも行き、母子手帳ももらった。そして、自分自身と向き合った。少しずつではあるけれど、あれだけ悩んでいた妊娠も、出産も、自然と受け入れられるようになってきた。産婦人科は、自宅から少し離れた小さなクリニック。知り合いに会わないことを第一条件に選んだ。「独身ですね。生みますか?」「はい」40過ぎの女医さんに聞かれ、はっきりと答えられた。普段小さな子供達を患者として診ている私にとって、生まれてきてくれる命は奇跡でしかない。その命を絶つなんて・・・考えられない。もちろん、そうなると現実的な問題は出てくるが、幸い私の周りには子育てしてる女医さんも多い。私にだってできなくはないと、思えてきた。***日がたつにつれ、つわりにも慣れてきた。そんな時、私は体調のいい日を見計らって久しぶりに実家へ帰省した。私の生まれ育ったのは、隣の県。今の家からは電車で2時間の距離で、のどかな田園風景が広がる田舎町だ。うーん、懐かしい。ここに帰るのは1年ぶりかな。そんなに遠いわけではないけれど、つい足が遠のいていた。「お帰り、紅羽」「ただいま」母が駅まで出迎えに来てくれた。「父さんは?」中学教師の母さんは平日仕事のはずだから、今日は父さんが迎えに来てくれると思っていた。「お父さん、急に葬儀が入ったのよ」
ガチャ。すっかり寝てしまった紅羽を抱えて玄関を開けると、福井翼が顔を出した。「おかえりなさい」「ただいま」俺の家でもないのに、自然と口を出た。「寝たんですか?」「ああ」「先生も大変ですね」「まあな」多感な思春期を他人の家ですごしたせいで、俺は外面のいい人間になってしまった。いつ笑顔でニコニコしているから年寄りには好かれるし、愛想が良ければ仕事もやりやすい。そんな宮城公を自分で作り上げた。しかし、こいつに関わる時でだけ本性が出てしまうんだ。よほど疲れていたのか、部屋まで運びベットに寝かせても紅羽は起きなかった。その後キッチンに入り、冷蔵庫を空けてみると、中身は水と、ビールと、卵が数個だけ。「相変わらずの食生活か」とてもじゃないが、妊婦の、いや女性の家とは思えない。***「荷物、置きますね」玄関に置いたままだった荷物を、翼が運んできた。「ああ、すまないな。ビール飲むか?」「ええ、いただきます」ダイニングに座り、つまみもなしでビールを空けた。「寝ましたか?」「ああ。人の気も知らずに夢の中だ」「食べれてなかったし、眠れてなかったし、最近辛そうでしたから」ふーん。こいつは俺よりも紅羽のことを知ってる訳か。「悪いが、気にかけてやってくれ」色々と思う所はあるが、やはり頼れるのはこいつだけだ。「わかりました。で、どうする気ですか?」翼の探るような視線。「それは、あいつが決めることだ」人の言うことを素直に聞く女じゃない。「先生はどうしたいんですか?」それでも翼は食い下がる。「俺は・・・ポケットにしまっておきたい」「はあ?」やはり、唖然とされた。しかし、これが本心だ。できることならこのまま連れて帰りたいが、できない
送っていく車の中で、紅羽は眠ってしまった。妊娠するとホルモンのバランスが変わって眠たくなることもあるらしいし、つわりも体調の変化も人それぞれ。症状も、一概にこうだと言えるものはない。まあ、命を1つはぐくもうと言うんだからそれなりに体の負担は避けられないのだろう。それにしても、どうしたものだか。こいつが母親になるなんて、想像もできない。いつも真っ直ぐで、正直で、それでいて不器用で、心配で目を離すことができなかった。最初は妹を見るように見ていたのに、いつの間にか手を出していた。近付けば近づくほど彼女の側を離れられなくなって、お互いを恋人と認識するようになった。二人の関係を隠したつもりはない。一緒に手をつなぎ、堂々と街を歩きたかった。でも、余計なことを口にしない紅羽にあわせているうちに、秘密の交際のようになってしまった。それが・・・子供ができるなんて。「うぅんー」助手席から聞こえてくる紅羽の声に幸せを感じる。こんな時間をずっと過ごせたら、いいだろうなあ。「かわいい顔して、強情な奴だ」***俺の両親はごく普通の会社員と専業主婦だった。小さなアパートに4人暮らしで、俺の上に姉がいる。体の弱い母は働きに出ることもできず、決して裕福ではなかった。父は寡黙で真面目な仕事人間。母は、元々金持ちの娘だったらしい。駆け落ちして一緒になったと大きくなってから聞かされた。そんな母も、俺が13歳、姉貴が15歳の時に病気で死んでしまった。母の訃報を聞いて駆けつけた祖父は「お前が娘を殺したんだ」と父に罵声を浴びせた。葬儀の後、俺と姉貴は母の実家に連れて行かれたが、父は止めなかった。一生懸命頑張りすぎた父は、母が亡くなる前から心を壊してしまっていて、病院を出たり入ったりの暮らしだった。そんな父に子供を育てられるはずもなく、どうしようもない選択だったのだろう。3年後、父は病院で亡くなった。金持ちの家とは言えすで
翌朝、渋滞を避けて早めに家を出た。 この体で長いドライブをすることに不安はあったけれど、行かなくてはいけない気がして車を走らせた。 以前来たときは綺麗な緑に覆われていたのに、今は枯れ葉が舞っている。 なんだか寂しいわねと少し感傷的な気分になりながら、私は診療所への道を進んだ。 「こんにちは」まだ診察前なのは分っていて、玄関から声をかける。「はーい」出てきた看護師の、どなたですかと怪しむような視線。「私、山形と言います。公、いえ、宮城先生はいらっしゃいますか?」 「先生ー」看護師に呼ばれ、公が奧の診察室から出てきた。「え、お前」やっぱり、驚かれた。 何も言わずにやって来たのだから、当然だろう。「お知り合いですか?」 「同僚です」看護師に聞かれても、私はそう答えるしかなかった。***公が診察の間は、院長室で休ませてもらった。 環境が変わって気が紛れたのか、今日は吐き気がしない。 来客用のソファーにもたれかかりながら、時々聞こえる公の声に耳を澄ませた。「どうかした?」昼前になり戻ってきた公が、なぜか不機嫌な私に渋い顔をする。「別に。どうもしないけど・・・」 「話があるんだろ」こんな平日に前触れもなく訪れれば、何かあったと思うに決まっている。「実は・・・赤ちゃんができたの」私は、核心のみをはっきりと伝えた。「そうか」驚く様子も見せず、公は私をそっと抱きしめた。「私、迷ってるの」正直、生んで育てる自信なんてない。「俺は、どんな結論も受け入れる」男ってずるい。 決められないからここにいるのに・・・「妊娠も出産も私ばっかり。私だって、医師としてのキャリアを積みたいのに」公の前で歯止めがきかなくなって、甘えが出てしまった。